東屋書店

一つのブログは一冊の本である

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自己を認識する言葉そして共同体への接続

以前こんな記事を書いてみんなに評価をされた、ありがたいことである。

 

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さて、ここでカステラの話が出てくる。

 

これを前述の何者であるかの話に適用すると、自分が何者であるかは発言内容による。と言う話になり、例えば「僕はカステラマン!」と言うと、皆があいつはカステラマンだからカステラ買っていってやるかとなりカステラを買ってくれることになります。

なので、彼が何者であるかは誰がどう見てもカステラマンになります。

もはや「自分が何者なのか」は「自分で決める」しかない - 東屋書店

 この後に自分は何者であるかを発言しなければならないみたいな話をするのだが、ここで一つ落とし穴がある。

それをぴったり表現する言葉がなかったら?
例えばセックスを必要としない恋愛感情と言う物をどうやって表現すればいいのだろうか?

セックスを拒絶する若者達

wired.jp

 

ここに書かれていることはセンセーショナルな内容だ。あるカップルの間にセックスという関係性が無い、もしくは非常に希薄と言う状態が実在しうるという記事だ。もちろん倦怠期におけるセックスレスと言った

 

まず町中を見て貰いたい。そこら辺で若いカップルがうろついているのが見えると思うが、彼らの間にセックスと言った関係が無く、それどころかキスと言った関係性すら無い、と言った状況を考えることが出来るかどうか? 無いだろう。例えそういった話を聞いたとしても照れ隠しだろうと気にもとめていなかった。

この話を受けて考えると、僕がARIAの登場人物達に感じる気持ちと同じなのかもしれない。僕はあのキャラクター達に対して性的魅力を全く感じない事に加え、薄い本でR-18な表現を見ると心が過度に不快な反応を示す。

 

しかしながら、僕自身は普通に性的欲情を示すので彼らの気持ちを考えるのはナンセンスと言ったものだろう。なので、これ以上の自分語りは避けるがそういった関係性が存在する可能性があると聞いたらある問題が浮上してくる。

自己認識の土壌が無いと言うことだ。

言葉が無ければ事象の認識が出来ない

例えばこう言う論がある。

人は名前をつけなければ事象を認識できない。

まことしやかにささやかれているが、今回の事例で見ればそれは本当では無いのかと考える。

この状態を日本語では無性愛者や非性愛者、もしくはアセクシャルと呼ぶが、不勉強ながら僕はついさっきまでこの言葉を知らなかった。

つまり僕の世界には異性、または同性に欲情しない人間は先ほどまで存在しなかったのだ。この語句を知ったことで僕の世界に無性な人間が出現し、巷を歩くようになったのだ。

その事象は存在していたにも関わらず!

 

結果、自己を認識出来ない

例えば僕は欲情するが世間一般が欲情することがないと言う状況に置くと、自身の状態を説明できる言葉を持たないという場合、非常に不安定な状態になる。と言うことが分かる。

もはや「自分が何者なのか」は「自分で決める」しかないでも言ったとおり、自分が何者であるかを決めるのは自分である。しかし、自分の事を端的に説明できる言葉、記事中ではカステラマンであるが、そういった言葉を知らない場合アイデンティティの確率が出来なくなる。場合によってはカステラ+マンのように言葉を作らねばならない。

さらに、こうした定義はいまだ流動的だ。自らを「デミセクシャル」(半性愛)と称する人々の多くは、ごくまれにしか、そして親密な関係にある相手にしか性的欲望を感じないという。「グレーアセクシャル」は、完全なアセクシャル(無性愛)と一般的な性愛レヴェルの中間に位置する人々だ。それから、他人に対して抱く恋愛感情の度合いに応じた種別がある。ジュヌヴィエーヴは、あらゆるタイプの人に対して性的欲求を伴わない恋愛感情を抱くので、理論的には「パンロマンティック」(全恋愛)なのだという。ショーンは男性として女性に心を引かれるので「ヘテロロマンティック」だ。

この分類が大雑把で紛らわしいものに感じられるのは、これらの言葉のほぼすべてがオンライン上(掲示板や、Tumblr、ブログなどのコメント欄)でつくられたものだからだろう。

セックスを拒絶する若者たち──アロマンティック・アセクシャル|WIRED.jp

 

流動するコミュニケーション・ツールとしてのアイデンティティ

ただし、多くの人がわかっている通り、自己認識なんてものは比較的容易に塗り変わってしまう。この間はカステラマンだったけど、今月からはシフォンケーキマンみたいな感じである。大まかには一緒だが、内実が全然違うなどといった場合や、カステラマンだと思ったけど、ただの甘党だった。みたいな大幅な変動などしょっちゅうである。

なので、こうやって言葉をこねくり回すのはいささか問題があるのでは?と言った認識もあるかもしれない。

そこでは必ずしも特定の性的アイデンティティについて語られるわけではなく、これらの分類名はむしろ、人々を互いにオンライン上で位置づける標識として機能しているのだ。

(中略)

分類名が多くを説明しているとはいえ、デミセクシャルやグレーアセクシャルの人々はその定義に縛られているわけではない。彼らの多くは、自分の性的指向が変化しうることをごく当たり前に受け入れている。

セックスを拒絶する若者たち──アロマンティック・アセクシャル|WIRED.jp

しかしながら、それは大多数派の認識違いである。以前述べた、コミュニケーション・ツールとしての利用を度外視している。

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性をコミュニケーション・ツールとして利用するなんて!と言う声が一部から聞こえてきそうではあるが、ではカップル間の生殖行為以外の性交流はコミュニケーション・ツールとしての性利用では無いのか?という疑問を持って答えさせていただこう。

閑話休題

そもそも、少数派がこのようなコミュニケーション・ツールを必要とするのは最近僕が考えている共同体感覚という概念を適用すると分かります。少数派、特に今回取り上げているような人たちは少数派の中のさらに少数派のような非常に小粒な集団であることがわかる。

彼らは常に感覚の違う大多数に取り囲まれて生活している。ある意味、精神的無人島状態とでも言うべき状態で、この感覚を共有し合える人が周りに居ないのだ。

そういったときに、自分の感覚に名前がつけられていることを目撃し、しかも活発に交流が図られている事が判明したらどうだろうか? 無人島に村があったと喜び勇んで駆けていくのでは無いだろうか? よほどのことが無い限りそこから離れようとはしないだろう。ここで彼らは共同体を見つけたのだ。そして自らの状態に名前をつけて交流を図る。

そしてその交流の中で自己の磨き上げが行われて自己認識の大幅な揺れ動きが発生すると僕は考えている。

 

まとめ

上記のカステラマンがシフォンケーキマンになる事も、ふとシフォンケーキを知って食べたらいい感じだった。と言ったような不測の事態に遭遇したためであろう。その不測の事態を起こすのも、この場合であればお菓子との交流を通してだし、彼らの場合も似たような感覚の人たちと交流して、新しい概念を知ったりしたからである。

別に変化するのは問題では無いのだ。問題は他者と交流できない環境である。