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東屋書店

一つのブログは一冊の本である

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表舞台から消える人達

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いくつかの大手ブログやメディアサイトを見ていると、寄稿という物がチラホラ目についてくる。

 

大体そうした記事という物はいいことが書いてある。やれ知的生産がどうだとか、やれタスク管理だとか、自分の夢をかなえた方法だとかそういう記事だ。

 

万人に夢を与えるような記事。素晴らしいことだと思う。

 

では寄稿する彼らのブログや、サイトでは普段どんなことが書かれているのか覗きに行こうと思い立つ。寄稿記事のどこかにある執筆者のプロフを探しクリックして彼らの業績をロードする。

 

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最終更新 2013年○月○日

 

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なんだろうこの言い表せない気持ちは。

 

彼らはあの寄稿記事であんなにも輝かしく、自分自身について熱く語っていた。

ふたを開けてみれば何億光年先から発せられた今は亡き星の光と何ら変わりがないではないか!

 

もっとたちが悪いのは、明日は我が身なのではないか?と言う虚無感だ。

ネットの表層から現実の深層へ沈み込み、声すらかけられなくなっている彼らの仲間に僕も入ってしまうのではないか?と言う恐怖。

 

怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――いやまてよ?

 

ふと疑問が浮かんでくる。なぜ彼らはそこで潰えてしまったのか?

一体なぜ?

 

いや、もしかしたらこの中の幾人かは僕が観測できない高みに至ってしまったのではないのか?

たとえるならつい最近までブラックホールを直接観測する術が無く、間接的にしかわからなかったかのように。

彼らは気まぐれで活動の場を変えてしまったのかもしれない。その行為にどれほどの意味があるかはわからないが、人間は時たま不合理に行動する。その表れかもしれない。

 

また、本当にそのことについて潰えてしまったとしても、やっていく内に別の事を見つけて行動しているのかもしれない。保育士になりたかったけどよくよく考えてみると小学校の教師がやりたいと言った具合で。

 

ネットから見える側面はあくまで側面で、角度を変えると容易に見えなくなってしまう。もしかしたらそういうことなのかもしれない。

 

まとめ

最も僕のこの意見は完全に楽観的な話だ。中には完全に潰えている人もいるだろう。

でも、この考え方こそが僕の強味ではないのか?と考える。

僕は最初この記事を書くときに「かなしいのう」で締めくくろうと思っていた。

しかし、書いているうちにどんどんポジティブな考えが生まれて、そちらに記事が流されていった。

 

「鬱な結末など聞いて誰が得するのか?」

 

例えそのブログが鬱な結末を辿ったとしても、彼らの人生までは鬱ではないのだと信じたいのだ。

 

一つのブログは一冊の書籍である

 

読書を終えた後の話を考えるのは誰にでも許される読み手の権利だ。

 

だから僕はハッピーエンドを書き綴る。