どうもふしめろです。
最近話題のこれについて。
またしても僕に言える範囲をすべて言われてる感があるのですが、何とかしましょう。
マスコミは関係ない
この一連の騒動で厄介なことは意見者が
「これだからマスコミは”マスゴミ”なのだ」
という論調の上に立ってしまい批判し始めることである。
それはあまりにも危うい。
どんなものでも粗を探そうと思えばいくらでも出すことができるのが当たり前だ。僕も過去にいろいろ言われたり、厄介ごとをやってきたのだ。探そうと思えばネット上のそこらかしこにちりばめられているだろう。
個人ですらそれなのに、各種メディアなど歴のある組織は探せば探すほど凄まじい物が出てくることなど経験則でわかる。
なので、注意深く見ればこれに係る一部の意見はマスコミを攻撃したいだけの意見であることが臭ってくる。
その臭気に惑わされると正常な判断ができない。
このことは僕自身往々にしてあるので、まずここで言及することによってその鎖を断ち切ることにする。
表現できる限界
では、それらを省いたうえで僕は何をこの記事から読み取ったのか?
それは文章で表現できるものには限界があるということだ。
いや、すべての表現方法に限界があると言っても過言ではない。
表現とは規定された枠内における試行錯誤の結果生じる神秘的な行為だ。
音楽には音楽の限界があるし、絵には絵の限界があり、文章には文章の限界がある。
ではここで言う文章の限界とは何だろうか?
音楽に演奏時間と言う限界がある様に、絵には二次元と言う限界がある様に、文章にも文章量と言う限界がある。
例えばツイッターなら140字の限界がある。各種マスコミの記事にも600文字やら1000文字以内といった限界があるだろう。そういった限界を超えて表現することは原理的に不可能なのだ。
一見無尽蔵に書ける様に見えるこのブログだって確かどこかで聞いたら10万文字弱くらいしか書くことはできないと言うではないか。10万文字と言うとそこらのラノベ1冊分の分量だ。しかし、それでもラノベに終わりがある様に10万文字でしか表現できないこともありつつも、10万文字あっても表現しきれないことは山ほどある。
例えば親愛なる読者の皆様に対して思うこの僕の気持ちがその最たるものだろう。*1
また、それらを包括するように、沖縄での雪と北海道での雪。また、宗教上の理由で食べられないものについての見解。宗教ごとの神についての見解。と言ったように文化的背景や地域的背景からなる表現の限界がある。
ちなみにこの当たりの事については先日の記事に登場した倉下忠憲氏が執筆した、
下記の本で一部言及をされている。是非一度参照されたし。
また、表現できる限界がある以上、完璧なものなど存在しないがその表現の限界を模索することは無駄ではない。それは間違いなく自分の血肉になる行為だ。
僕自身こうやってブログをかきながら脳みそをこねくり回し、実っている思考の果実を圧搾し、濃縮還元し、工場でパッケージングして皆様の元に果汁100%でお届けしているし、*2これにより毎回毎回新しい発見と、自分の考えが研ぎ澄まされていく感覚を覚えている。
この行為については森博嗣氏の小説家という職業から引用をさせていただく。
小説の存在理由は、「言葉だけで簡単に片づけられない」ことを、「言葉を尽くして」表現するという矛盾にあり、その矛盾に対する苦悩の痕跡にある。
よって、文章に限らず表現されたものには限界があるとしたうえで物を見なければ、その表現に振り回されてしまうことになる。
引用記事の五神真学長のメッセージを上記の事に照らし合わせて解釈すると、
日本で表現されたものには日本の限界があり
海外で表現されたものには海外の限界がある
その全てを己の目で見よ
と言ったことが言いたいのではないか?と僕は考えるのだ。
最後にタイトルコールをしてこの文章を締めくくろうと思う。
切り取られた世界を見て空の広さを知るのか?