何故僕は小説を書こうとしているのか?
それはあのいいも言われぬ読書体験のせいだろう。
物語の登場人物になり切り、数々の悪逆を切っては捨ての八面六臂を頭の中で繰り広げたいのだ。
これはある意味代償行為と言える。
現実の自分と来たらどうだ。悪逆とは言わないが、逆らえない存在に対し頭を下げてぶつからないようにすごすごと生活している。その中でも頭を凛と上げ、意気揚々と過ごす同年代や年下に対して思わぬところがないとは到底口にすることはできないだろう。
そういった積もり積もった澱みを掃き清めるかの如く、小説を読むのだ。
しかしここで一つの疑問が湧き上がる。
それはどんな小説でもいいのか?
と言う話だ。
いや、いいはずがない。そこには必ず感情が介入する。
自らの心を掃き清めるためには、自らの感情が揺れ動かねばならないのだ。
自浄作用まさしくそれだ。
では本は感情を内包するのだろうか?
いや、しない。本に感情など、文章に感情など存在しない。
僕は今まで間違っていたことを考えていた。
本に感情を込めると相手に感情が届くのだと勘違いしていた。
まったくもって違う。といろいろ考えてきた今なら言える。
本は感情を発火させる装置だ。
読者が弾薬で銃が本なのだ。
本に装填された読者が雷管を叩かれ、自らの力で感情を発火させる。
感情を発火させた後それは爆発的に自らを押し出す。
本を置き去り思考の遥か彼方へ飛んでいく。
感動的な本を読み終えた後に、内容などほとんど覚えていないことに気が付く事はこれに起因する。
飛び去った後、弾丸は薬莢と言う感情の燃えカスがそこにある事しか他者に示す事は出来ない。そこに有ったはずの感情は思考の火花ですべて燃え尽きているのだ。
内容を再び閲覧しようとしても、薬莢に再度火薬を詰めて雷管を詰め直すようなもので、新品よりも威力は墜ちる。
では作家とは何か?
ガンスミスだ。
マガジン
引き金
グリップ
撃鉄
各種スプリング
ライフリング
照準装置
これらのバランスを取り、素晴らしい銃を作るのが作家の仕事だ。
各種装置がピッタリと噛み合い精巧な動作を形作るとき、始めて読者は的を射ることができる。
心の澱みを掃き清める事が出来るのである。