どうもふしめろです。
昨日の記事でこんな文言を書きました。
また、文学的SFには小難しい設定が多いですがその実非常にシンプルな題材を取り扱ってることが分かります。
それは、人間とは何か?私とは何か?精神とは何か?といった人類の本質に迫る哲学的な話です。
壮大なスケールの話なのにそこまでし無ければシンプルに物事が伝わらないのってなんだか不思議ですね。
嫌われる勇気---読了記 - 東屋書店
ふむ、文学的SFとは何でしょうか?
僕の愛するアンドロイドは電気羊の夢を見るか?が一つ上げれると思います。
この本は本当に深いとしか言いようがない、あの名作ブレードランナーの原作でありその完成度の高さや、文学的価値においては疑いようのないものであることは明白です。
しかし、この本を読了して思うのはなぜこうも魅了されてしまうのか?
なぜ僕はこの本を5回も読了してしまうのか?という疑問です。
基本的に僕は読了したら次の本を読むという感じで、よっぽど感銘を受けるか参考書でもなければ読み返しはしません。2回読むだけでもすさまじいことなのに5回もです。
複数かい読み込むにつれて次第に明らかになってきました。
それはこの本に隠された主張に魅了されていたのです。
人間性と機械性の『違い』とは
この本の隠された主張とは、アンドロイド(人造人間)と人間の違いとは何か?
引いては人間とそれ以外の違いとは何なのか?が命題であります。
著者のフィリプ・K・ディックはこの命題にこう答えています。
私にとってこの作品は、人間とは何かと言う疑問に対する初期の結論を述べたものである。
(中略)
問題はあなたがどれほど親切であるかだ。
この親切と言う特質が、われわれにとっては、われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、それは我々がどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、どんなものになろうとも、永久に変わらない。
なるほど、彼にとってはもし金属片が親切性を持っていればそれは人間であると言う話になるということになります。
それを裏付けるかのように文中にこういう場面がある。
知能テストにパスできなかったイジドアと言う人物がサブ主人公として出てきますが、彼はあろうことか地球に存在してはいけないアンドロイドだと、隠匿したらばせられると知ったうえで自分一人しか住んでいないオンボロ幽霊アパートにプリスと言う女性アンドロイドをはじめ、最終的にアンドロイド4人を住まわせてしまいます。
しかも住まわせた理由はみんな逃げた来たらしいから一緒に居れるとうれしいよね。である。
この強烈過ぎる親切はアンドロイドの冷酷さと対比され浮き彫りになる素晴らしい一シーンが完成します。
しかしここで目を見張るのはイジドアほどあからさまな親切をすることができず、アンドロイドのような冷酷さを時たま出してしまう我々と同等の存在がこのシーンに存在しているというその舞台設計でしょう。その真の主人公は先ほどのプリスです。
プリスはイジドアのアパートに住み始めたところからイジドアのはた迷惑ともいえる親切攻撃にさらされ、アンドロイド特有の冷酷さがほだされていったように感じます。
しかし、プリスは最後までアンドロイドの冷酷さに振り回されてしまします。
それこそ、イジドアがプリスに嬉しそうに説明したキップルと言う概念のように。
キップル第一法則
キップルはキップルでないものを駆逐する