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死んだあいつへ想いを馳せて

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あいつが死んだらしい。

数年前の同窓会でその話を聞いた。

小学校以来合っていない上に異性だったので幼年期特有の同性で固まる性質にもれずそう話すこともなかった。いや、異性グループのリーダー格かつ先生派だったので一方的にうるさい限りだったが、喧嘩とかいじめとかそう言うのはなかった。

 

今日はそいつの誕生日だが、祝うべき対象はこの世にはもういないらしい。奴は自殺したそうだ。完全に伝え聞きかつ親族も口を閉ざしているのだと言う。

 

噂には尾ひれがつきものだ、やれ仕事疲れだ痴情のもつれだとかなんとか飛び交っていたが、詳細はどうあれ死んだと言うことだけは事実なのだろう。それすらも噂ならどれだけいいか。

 

この話を聞いた時また思い返すたびに僕は現実というものを再実感する。我々は死ぬのだ。そこから先は繋がらないのだ。僕の年齢でもふとしたことで死ぬのだ。

 

日常はことさらに死を隠匿する。エンタメは死を復活可能な物にする。しかし、死は確実にそこにある。それを気づかせてくれる思い起こさせてくれるのが今日だ。

 

あいつの誕生日はFacebookやGoogleに登録されていてこの日になるとカレンダーが教えてくる。消そうと思ってもしち面倒臭い手順を踏まなければならない。その手順をさぼって一年経つとまた教えてくる。

 

まるであいつが生きているかのように呼びかけてくる。

プレゼントを贈りましょう。

おめでとうを贈りましょう。

贈ったところでレスポンスはないのだ。

 

果たして現代における死とはなんなのだろうか? おそらく、データを生成・送信できないことだと思う。ゴーストという言葉にネットから隠居するという意味合いが含まれ始めている昨今、データを生成できなくなった存在は亡霊としてその抜け殻がネットが崩壊するまで永遠に存在し続ける。

 

もし、なんらかの手段を用いてデータを永遠に生成・送信することができれば現代において死と定義することはできなくなるだろう。法律上は死んでもネット上では死ぬことができないのだ。

 

おそらくあいつはネット上でのかりそめの不死を獲得しているように思える。少なくとも僕にとっては。

 

毎年一回データを送信して僕はそれを受け取る。そしてこうやって思いを馳せる。あいつは僕の中で生き続けている。あいつが嫌がろうと、僕が嫌がろうとも。

 

そして、受取手の僕がいなくなったらもしくはあいつの誕生日を登録している人間がいなくなった時初めてあいつは死を迎えるのだ。

 

もっとも、この文章はすべて昔から言われていることを僕の言葉で直しただけである。