東屋書店

一つのブログは一冊の本である

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書評記事は「点」と「点」をつなげる作業でしかない

私の書いた本が出ました!!!

画像生成AIで絵を作りたい人必見です~

 

書評ブログとして始まったこの東屋書店は最近は雑記の割合が多くなってきました。

と言うのも本を読む時間をあんまり取らずにブロガーの皆様の記事を読みまくったりしていたのです。なので一日一更新と言う枷を自らに課している僕は雑記しか書くことがない・・・と言うかブログ読みとかそういう記事しか書けなかったというわけです。

 

以上言い訳終わり。

 

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書評記事とは何か?

さて、上記のように本を読む機会が減ってしまったため僕には十分の考える時間が生まれました。

それは、

 

書評記事とは何なのか?

 

というものです。

様々な書評記事を読み、サブタイトル((の通り様々な本を読んできた僕は、このブログの原点である書評記事について読ませる書評そうでない書評とは何かをホンワカホンワカ考えていました。

 

そうして突き詰めて考えていくと読ませる書評と言うのは、書評する本のみで完結するのではなく、別のところに話が派生していくものが面白い書評と言うものなのではないのか?という考えに至りました。

 

それこそ「点」と「点」をつなげるように

 「点」と「点」をつなげる

この「点」と「点」をつなげるということはどういうことなのか?

簡単と言うとその本に関連する物事を引っ張り出してくるということです。

 

生まれてから今に至るまで積み重ねた人生経験を総ざらいしてその本に関連する物事を引っ張り出す。よって書評をするというのは自分の人生と向き合い、経験を語るということになります。

 

なのでもし小学生が本を書評するとなったらそれはそれで面白いのですが、記事単位でみると非常に薄っぺらい物になると思われます。なぜなら人生経験が少ないからです。このことは人生を可もなく不可もなく無味乾燥に生きてきた人にも言えることです。

 

もちろんその書籍単体で作成する書評の中にも面白いものはいっぱいあります。センスさえあればね。しかしそれだけで面白いと思わせる、興味深いと思わせる。

さらに踏み込むと、書籍購入まで思わせることはできないのではないか。

 

なぜなら

その本のみで完結するような情報なら買っても買わなくても読了後に何も変わらないからです。

 

領域外での拡張はなんの意味もない

将棋の盤が拡大され駒が増えたけど増えた駒は拡大されたマスの中でしか動かない。ではこれで将棋の打ち方に何か駒の指し方に変化は起こるのだろうか?

と言う話があります。うかつにもこの出典を忘れてしまったので申し訳ないのですが、この話の回答としては、将棋は全く変わらない。盤外でいくら動いても王を詰むことはできないのだから。とされています。

 

書評も一緒です。書評記事を読むような人はもともと読書の習慣がある人なのですから面白く感慨深い本を読みたいと思うに違いありませんし、書評記事を読んでそこから本を買うと言うことはその本を現時点で所持していないのでしょう。しかし、その書評記事が自分の好みや人生において全く領域外の本だった場合購入するのでしょうか?

 

僕だったら購入しません。

 

もしその本を読んでも僕の中に情報の孤島が生まれるだけです。であればそれを読む意味と言うのはどれほどの価値を持つの言うのでしょうか?

 

しかし、もしその本が僕の仕事に関連したり僕の好みに関連するのであれば購入する意味はあります。少なくとも領域外の本よりは特段に購入する価値が発生します。

 

なので少し飛躍しますが面白い記事、興味深い記事、購入される記事とは、

 

いかに対象の持つ領域を広げられたか?

 

また、言い換えるといかに対象の価値を一般化できるのか?と言う話に帰結できます。

 

対象の一般化

上記の話で領域を広げるという話になりましたが、広げる領域にも方向性があります。

もし、本をいっぱい買ってほしいと言う話であれば関連書籍をうまく絡めて書いていく方向がいいでしょう。

 

例えば、

この哲学書はこういう概念を提唱しているが、この概念はSFのこの本に似たような話が出てくる。しかも、このSF本は現代ラノベの元祖で多くのラノベにこの概念が行き渡っており。非常にうまくシステムに導入されているラノベがこの本なのである。

 

どうでしょう、この哲学書読みたくなりましたか?もしかしたらSFのほうを読みたくなったかもしれないし、ラノベを読みたくなったかもしれません。

 

このように各書籍を「点」としてとらえ「点」と「点」をつなげる。
そうして書評を「面」として捉えられるように一般化し今までのジャンルから別ジャンルに飛び思いもよらなかった良書を提供する。

これがあるべき書評なのではないではないのか?

 

もちろんこれは一例で、もっと他にも方法があり、

バズってどうする!? カテゴリーの記事一覧 - A1理論はミニマリスト

 A1理論さんのバズってどうするカテゴリーの書評記事がそうです。

 

 

結局、『人生の目的』ってやっぱり、

 

 

『自分らしく生きること』

 

 

だと▼思うんですよね。
「人生の目的」はやっぱり『自分らしく生きること』なんじゃないかな? - A1理論はミニマリスト

 

最も自己の信じることに集中することがGoodであり、力と進歩がこれに加えればBestである。(カーネギー) - A1理論はミニマリスト

 

 

このように書評の中で自分の過去記事を言及することによって、書籍とブログを点で繋げて面にする。こうすることによってブログを巡回してもらいファンになってもらう。こういったアプローチもできるのではないでしょうか?

 

さらにスティーブ・ジョブズの名スピーチを引用するとこの「点」を繋げる行為は何もこの2パターンだけに収まらないことは明白です。

 

一例を紹介しましょう。当時Reed大学は、国内で最高のカリグラフィ(装飾文字)教育を行っていました。キャンパスすべてのポスターやラベルまで、美しいカリグラフィがなされてました。私は退学して、通常のクラスの必要もなく、技法を学ぶため、カリグラフィ・クラスに出ることにしました。セリフとサンセリフ書体、字間の調整、素晴らしいタイポブラフィなどを学びました。それは美しく、歴史があり、芸術的に巧妙で、科学では捕らえられないものでした。


そして、私は夢中になりました。どれもが人生に何ら役に立ちそうにないものばかりです。しかし10年後に、最初のMacintoshをデザインするときに、すべてがよみがえってきました。そして、そのすべてをMacに組み込むことが出来たんです。それが美しいタイポグラフィを持った、最初のコンピューターだったのです。

 

「ハングリーであれ。愚か者であれ」スティーブ・ジョブズ伝説の卒業式スピーチ全文 - ログミー

 

まとめ

実際こんな記事書くと次の僕の書評ハードルが上がりそうですが、別に全然上がってなくて特に「面」を意識しない書評も書きます。

それは僕の中で「面」に出来なかった。表現ができなかった。そういう書評であります。でもその「点」はまた次の書評に活かせるのでまたその時に追記すればいい。

 

さっきのジョブズも言ってる。

 

もちろん、大学時代に先を見て『点を繋げる』ということは不可能でした。しかし、10年後に振り返ってみると、実ははっきりとしているのです。繰り返します。先を見て『点を繋げる』ことはできない。できるのは、過去を振り返って『点を繋げる』ことだけなんです。


だから将来、その点が繋がることを信じなくてはならない。根性、運命、人生、カルマ、何でもいいから信じること。「点が繋がって道となる」と信じることで、心に確信が持てるんです。たとえ人と違う道を歩むことになっても。信じることで、すべてのことは、間違いなく変わるのです。

 

「ハングリーであれ。愚か者であれ」スティーブ・ジョブズ伝説の卒業式スピーチ全文 - ログミー

 

 信じる心だってね!