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不覚にもINCELの主張とやらが理解できて心の警報が鳴っている

note.mu

 

前回の記事に引き続きこちらの記事の感想を書いていこうと思う。

 

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 というのも、記事内でおぼろげに語られるINCELの主張には常日頃から感じていることの言語化がなされており、さらに悪いことにこの言語化の精度が高いのだ。

 

よって、自分の考えていた感じていたことを他の人間も感じていると言うあの奇妙な同族感と連帯感と受け入れられ感の三重奏が記事の向こう側から聞こえてくるわけである。

 

 

端的に言えばこれは僕の中にあるピーキーな警報装置を作動させるには必要十分どころか過剰にすぎていて、INCELに同意できる自分とそれを全否定しなければ心が飲み込まれるという危機感でごっちゃになって非常にしんどい思いをしている。

 

なので、このブログ上で僕がなぜINCELの考えが理解できるのかそして僕の中の警報装置がなんで作動しているのかを書き連ねて精神の安定を図ろうという記事である。

 

凝り固まる理由は人それぞれだが最終的な凝固状態はおおむね一致するだろう

前置きすると私ふしめろは女性からモテない。

モテないというのはいろいろな意味を含むものが、今回の場合においては性的な意味でモテないという意味だ。

 

18~20歳のころは彼女を作ろうと声をかけたりなんだったりをして数回ほど異性とデートや食事に行くことはできていたが、どれもこれも一回こっきりで音信不通となり続いたとしても2回かそこらで終わりだった。

 

今にして思い返せば僕の女性に対する接し方が酷いものだったのだろうと自己分析はできる。

日ごろ接する異性と言えば自分の母親かバイト先の(母親と同年代の)主婦たちで自分と同年代の異性と接する経験が中学以降断絶しているからであろうと。

 

しかし当時は理由がまるで分らなかった。どうやら僕の接し方が悪いのだろうと判断はつくもののじゃあ何がいけないのか何を直せばいいのか判断ができないし、異性と二人で食事に行くのなんてそうそうあるわけじゃないため試行錯誤も難しく、さらには不意打ち気味の音信不通によりそのたびに僕の心は激しく動揺する。

 

当時もそう精神が強いわけではない僕は異性との関わり合いを重ねるたびに暗く落ち込んでいき、最終的には異性に懲りて二度と関わり合いになりたくないとなったわけだ。

 

 

こうして僕は「異性は自分のことを受け入れず、また関係を断つときもゴミのように取り扱い自分の心の平穏に悪影響のある存在である」と思考が凝り固まった。

 

 

DQNと一緒にはいられないように異性とも一緒にはいられないが異性愛者である以上それは自己の存在否定に他ならない

ある意味語弊を招く言い方ではあるが、例えばあなたがネット上でDQNと呼ばれるような人たちとプライベートを一緒に過ごせるかと言われればおそらくあなたがDQNの身内でなければ難しいだろう。

 

それと同じように僕は仕事以外で異性とプライベートを一緒に過ごせるかと言われれば非常に難しい場面に心が立たされるのである。

なぜなら、凝り固まってしまった僕の思考では異性は自分のことを受け入れないし、ゴミのように取り扱うし、自分の心をかき乱していくいわばDQNなのである。

 

もちろん、異性の中には気のいい人もいて自分のことを受け入れる人もいるし、人間としてとあり扱ってくれる人もいることを重々承知しているし、実際そういう人と友人としての関係を築けてもいるが、それはDQNの中にも気のいい奴もいて楽しく遊べる奴もいるという話の域を出ないので、基本的に異性とはDQNと同じように可能な限り関係を避けたいわけである。

 

だがDQNのように離れても問題のない存在であればただ単に離れればいいわけであるが、残念ながら自分は異性愛者である。

 

異性が自分にとって不利益な存在であると結論していても本能的には異性を愛するわけで、精神的にアクセルとブレーキを同時に踏んでいるに等しい。

 

そんな状態が心にいいわけあるだろうか?

 

心の矛盾を解消するために極端な行動に走りかねない自分がいることを常日頃から認識していることはある意味ホラー

こうして今現在上記のことが僕の中で起こっているわけだが、こうした心の矛盾を解消するのは非常に難しい作業で、そうした矛盾の解消行為としてのINCELの考えや行為が心で理解できてしまうというのはなかなかどうして悲しいものがある。

 

一方的な異性蔑視は本能で異性に惹かれてしまう自分を説得するためであるし、無差別テロもその行動の根源の気持ちも理解できてしまうとともに自分の中に彼らの種のようなものが確かに存在することを認識できることを俯瞰する自分。

 

向こう側だと思っていた存在が確実に自分の側であるということを理解する恐怖は僕と同じような人間(おそらく日本にも大勢いる)ならわかるはずだ。

 

思想を輸入しそれを日本文化に合わせて再構築して利用されたらどうなるのだろうか

以上が僕のINCELのことを理解してしまったという話であるが、じゃあなんで僕の警報が鳴り響いているのかを書いて終わりにしようと思う。

 

それは、もしINCELの思想を美しく脚色し声色高く宣言されればどれほどの人間が集い金が動き社会の治安が乱れるかを考えてしまったからだ。

 

おそらく将来的にINCELのような動機で行われるテロがこの10年以内に一回は出てくることだろう。考えたくはないが日本がINCEL思想の適用外環境とは思えないのだ。

 

 

ただの無題

この記事を読みましたどうもふしめろです。

note.mu

 

最後の最後の後日談の部分は少し前から僕自身考えていたことなので、他人が曲がりなりにも言語化していたことにうれしく思います。

 

正直言いまして僕自身これまでの生き方を見直さなければという風に考えている最中でした。

あれがやりたいこれがやりたいでなんとかなっていた時代は終わりを迎え、これから先の人生というものにある意味責任を取っていかなければならない時期に差し掛かっているのです。

 

今の現状を自己評価すると非常に高得点な環境ができていることに疑いはありませんが、ではその高得点はいつまで持続するのでしょうか?

 

思うに人生というものは数年の間100点をとるか長期間40点を取り続けるかの二択なような気がしてなりません。

そして、変わりゆく世界の中で40点を取り続けるというのは数年の間100点を取るものと同じ程度の力を注ぐ必要があるように見受けられます。

 

今までの力の入れ方を変える必要があるのです。しかも早急に。