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一つのブログは一冊の本である

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無に帰す時間に哀愁を抱いて

在宅勤務と言う名の有給消化を命じられて早3週間がたとうとしている。そのうちの一週間は本来の勤務時間中に資格試験の勉強を命じられて行っていたので事実上2週間の時間があったことになる。

この期間で僕がなしえたことと言えば、ゲーム実況動画の一部投稿、R18小説の書き上げ、ブログの執筆、数回の動画配信である。

2週間と言う時間があったにもかかわらず、家でその大部分をネットフリックスやYouTubeに時間を消費していて思うのは過ぎ去っていった自らの時間の価値である。

あれもできたこれもできたと、もう少し生産的な時間を過ごすべきだと反省しつつも実際世の中の人間すべてそんなものなのかもしれないと同時に考えてしまう。

 

おそらくある程度意識が高い人間や仕事がある人間にしてみれば本当に僕が過ごした無駄な時間だったのだろうと思うが、逆に言えばこの無駄な時間が持てるだけの余裕を獲得できたと考えれば多少は気分が安らぐ。物は言いようとはこのことだ。

 

そして、時間を持て余して今まである程度後回しにしてきた物事に取り組もうと考えると全く取り組めない現実を見たりもした。結局今までやってこなかった物事と言うのは時間がないという言い訳を盾に、本質的にはやりたくないことだったのだと理解できた。

これも逆に言えば今までやってきたことと言うのは言い訳抜きでやっていきたかったことなのだろうともいえるので、なんだかんだ不平不満を言いつつも自分は十分有意義な人生を送っていたしこれからも送っていくのだろうと安心もできる。

 

そして、家で一人孤独に*1いると今まで人間関係を丁寧に構築するのを怠っていた自分と言うものも見えてくる。Twitterで多くコミュニケーションを取れる人間を見ていると、今までしっかりと他者とコミュをとり親交を深めているアカウントを目の当たりにする。そうしたことを今までやっていただろうか? いややっていないのだ。

そして彼らに学ぼうとコミュを取ろうとすると不意に怖くなる。このアカウントにリプを飛ばしていいのだろうか? ブロックされてもいいと思いリプをする。リプが来る。思ったより簡単だと思うとともにどっと疲れる。

引用RTをするいいねが来る。返信が来る。RTされる。安心しどっと疲れる。

 

果たして僕はここまで人と交流するのが苦手な人間だったのだろうか。おそらくそうだし、気が付いていなかっただけで、まあうすうす気がついてはいたのだが、自分の周りの人間が合わせてくれていただけなのだ。

リハビリと思い意識的に高頻度にリプを引用をするようにしているが、そのたびに恐れが来る。距離感がわからない。

 

外界との接続が立たれた今、改めて他者交流を思うと僕が今まで認識していなかっただけで、本当にアクロバティックなことを人々はしているのだなぁと感じるのは僕だけだろうか? 

*1:実家に住んでいるので孤独ではないのだが、自分以外全員年金をもらっているので同世代近辺からはだいぶ孤立している

精神的欲求があまりにも肉体的欲求に結合されていることに驚く

先日NewsPicksのウィークリーオチアイで、落合洋一が言っていた言葉が非常に気にかかった。

 

要約すると以下の通りだ。

 

UberEATSで奮発して一枚三万もするステーキを頼んだんだが、三万払ったとは思えない容器で来て、マジかよと思った。

なのでここに付加価値をつけるには相当な金を払わなくちゃダメそうだなと言うことがわかって、ただこれって現状その付加価値を付けるだけのコストを払ったら家に板前さん呼べちゃうからどうなのって話で。

お店だったらなんかいい感じの内装だとか、いい景色が見れるとか、雰囲気がいいとか、人間はそこに置いておくだけで肉体的欲求があるので、それを解決すればいいんだけど、これを家でやるとなったら、ここに膨大な付加価値を付けられる可能性はあるよね。

 

みたいなことを言っていた。

 

 

落合洋一の本は読んだことあり、アウトプットが強烈に難解な人間であることは知っていたがまあニュアンスは理解することはできる。

 

そこでここしばらく肉体的欲求を解決できない*1のであれば、精神的欲求がインターネット空間上で解決できればそれは付加価値なのではないだろうかと考えていた。

 

つまり肉体的欲求から解放された場合に起こりうる欲求、精神単体での欲求とは何かということだ。それをずっと考えていたのであるが、僕個人についてあまりにも精神単体での欲求と言うものがなかったのだ。

 

まず三大欲求と言われる、睡眠欲・食欲・性欲について考えてみると、これらはすべて肉体的欲求に直結するものである。

睡眠はまあ寝ることだし、食欲は肉体の空腹感によって支配されている。性欲は子孫を残すという根源的欲求であり最もわかりやすい快楽の象徴でもある。

そして次に物欲、モノを管理統制下におこうとする欲求、これも精神的と言うよりは物理寄りの肉体的欲求なのかもしれない。

そして社会的欲求、他者からの相互作用を軸に自らの立ち位置を決める欲求。これはかなり精神的な欲求と言える。

 

ざっくりいくつか挙げたが、おそらく僕個人の考えの上では人間はこの間までずっと社会的欲求以外はほぼすべて肉体的欲求の解決にいそしんでいたのではないだろうか?

肉体的欲求はわかりやすい。トイレが汚いよりも綺麗の方が気分がいい。なぜならトイレが汚れていれば臭気が発生し、嗅覚を不快に刺激する。なので掃除をし刺激を緩和して快を取り戻す。

この繰り返しだ。いい雰囲気のホテルの方が気分がいい。なので香を焚いて嗅覚を刺激し、BGMをいい感じの物を流すことによって快を演出する。

 

考えていくうちに方向性が単調シンプルに思われて仕方がない。人間と言う存在が得られる情報センサーが五感*2しかないことに起因するからなのか? なので、五感を刺激する道具だけそろえて、デザイナーやアーティストが場の五感強度の調律を行うという行為が蔓延してしまっているからなのか?

 

まあそうなんだろうが。

 

そう考えて話が戻り精神単体での欲求とは何だろうか? 全く思い当たらない。

精神の立ち位置が肉体の上位概念だからなのかもしれない。PCの五感がキーボードマウス、カメラもろもろで、そこからの入力に反応して各自処理をするCPUのようなものなのかもしれない。

 

そうなるとCPUの欲求とは何かという話なってくる。常駐されているタスクを処理すること? しかしそれは脳にしてみれば恒常性の維持。飢え渇きを通して襲ってくる肉体的欲求に相違ないのではないか?

 

社会的欲求か? しかしそれはネットワークにつながって、恒常性の維持のために走っているタスクを処理するための儀式に他ならないのでは?

 

肉体的欲求からの解放された世界を考えるのは難しい。なんというか4次元を考えているみたいだ。

*1:コロナ禍において従来通りの肉体的欲求の解消行為が難しいので、精神的な空間であるインターネット空間での精神的欲求とは何か?

*2:実際にはもうちょっと細かく分かれるが