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僕にとってシェアは最高の賛辞である

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どうもふしめろです。

 以前こんな記事を書きました。

もう二百日も前の記事です。今と比べればよちよち歩きの文章ですが、そう言えるようになるまで成長したということでしょう。

www.hushimero.xyz

 

今日はこれについてもうちょっと思うことを書きます。

上記の記事ではもっとリツイートしようぜ!と言っておりますが、ここではもっと広義にシェアについて話します。

なぜシェアは最高の賛辞なのか?

日々様々な文章を見るとどうしても敬意を表したくなる文章という物が存在します。

この人でなければ書きえなかったであろう文章という物です。

ちなみにこの記事が詳しいです。p-shirokuma.hatenadiary.com

 

僕はそういう文章を見ると常に深い感動と共にこう思います。

 

ああ!この文章を書いてくれて本当にありがとう!

 

と、そして次に、この文章に対して何らかの気持ちを送らねば!と思うのです。

そうしたときにこの人は何をされたら本当にうれしく思うのだろうか?と言うことを考えると、まずシェアをされたらうれしいのではないか?と言うことを考えます。

 

もちろんそれは僕がされたらうれしいからです。僕の発信した情報がシェアされて読んでくれる人が増えるというのは何にも代えがたい素晴らしい喜びです。

なので、僕にとって”シェアする”ということは僕が最もしてほしいことであるので、僕と同じように情報発信をしている人たちにとっても嬉しいことではないのか?と言う推論が構築できます。

そうなってくると、僕は勝手に責任を感じてきます。情報発信者がされたいシェアという物は何なのだろうか?と言う疑問が湧き上がってくるからです。

 

意見のない反響

 

ただ、これは非常に簡単な二つの回答が用意されています。一つはいっぱい来てくれるようにシェアしてほしいということです。二つ目はその情報を見てどこで胸を打たれたか?が知りたいということです。

 

二つ目はシェアに使うシステムの問題になりますが、例えばツイッターや、フェイスブックだと自身のコメントが残せます。はてぶの引用は言わずもがなです。

 

そのコメントを通してあなたの意見を知りたいのです。

 

意見を見ることによって、今の状況を考える事が出来ます。不評もほしいです。何が不評なのか?何がまずいのか?それが知りたいのです。

 

例えばある記事を書いて多くの反響をもらったとしましょう。しかしそのすべてがノーコメントだったら何が原因なのか全く分かりません。もしかしたら文章の構成が良かったのかもしれません。何かまずい文章を書いてしまったのかもしれません。もしかしたら、今世紀最大の名言を言ってしまった可能性だって0ではありません。

 

でもその反響の中身がすっからかん。つまり、あのPVメーターがどんどんうなぎ上りでタワーとなってそびえ立つにもかかわらずコメントが全く無かったら?何がどうなってるかわからない途方にくれます。それ以上に恐怖を感じるでしょう。何か恐ろしいものに巻き込まれてしまったのではないか?と。

 

まとめ

なので、僕がシェアするときはできるだけ意見をつけようと努力しています。なかなか難しいのですが、最近その解決策を見つけました。

 

その記事で自分が最も印象に残った文章をコメントとして入れ込むということです。

こうすることで、発信者は「ああここで反応したんだな」と言うことが分かりますし、シェアを見た人たちもこんな文が中に込められているのか!と読みたくなるでしょう。

 

これとかそう思いませんか?