どうもふしめろです。
先日の記事がいい感じに反響をいただいたので、親愛なる読者様には感謝の念が禁じえません。
僕はコーチングを生業とする親に事のあらましを伝えてみようと思い立ちました。
コーチングと言ういささか特殊なコンサルめいた業ですから何かしらの知見が得られるのではないかと思ったのです。
「僕の記事という物は、流行りっぽい物事より自分の考えた事のほうが人に伝わりやすく反響を得やすいようである。で、あるならば僕が書くべき記事という物は自らの考えを文章にしたものである。と言うことが言えるのではないか?」
ざっくりとこのように伝えたところ、記事をいくつか閲覧しはてなブックマークについたコメントを読み込んだ後「なるほど、そうかもしれない。」と、親は答えこう続けました。
「前に聞いた通り君はこのままブログを続け反響をもらい収益を獲得しようとしているのだろう?一つ想像してほしいのだが反響と収益を十分獲得している状態を思い浮かべるとする。ではそのような状態になった原因は・・・」
文章の書き方が上達したためだろうか?
それとも、
君の考えがうまく表現できるようになったためだろうか?
混同してとらえていた二つの要素
この問いかけを受けたときに衝撃を受けました。
と言うのも僕はこの二つを混同してとらえていたためです。
自分の考えを記事にすると反響をもらえるということはいくつかの記事で体感しています。しかし、僕はこれを通して、文章の書き方がうまくなればさらに反響をもらえると一律に考えていたのです。
しかし、この問いかけで考えを改める必要がありました。
本質的にこの二つの要素は別々の評価軸にあるのではないのか?
そう考えるようになったのです。
ラマヌジャンを考える
ラマヌジャンと言う人を知っていますでしょうか?
「インドの魔術師」と呼ばれた数学者です。
要出典と言う非常にあいまいなあれな引用ですが面白い言説がのっているのでここに引用します。
(ラマヌジャンの仕事は)真に偉大な仕事の単純さと不可避性を備えてはいなかった。
それは奇妙さが減れば、より偉大になっただろう。
しかしそこには誰も否定できない天賦の才能があった。
それは深く無敵の独創性である。
もし彼がもっと若い頃に発見され、馴らされていたら、おそらくもっと偉大な数学者になって、新しい発見やより重要な発見をしただろう。
一方、彼はそれほど「ラマヌジャン的」でなくなり、ヨーロッパの教授風になって、得るものより失うもののほうが大きかったかもしれない。
なるほど、嘘か本当かこの言説は参考になります。
僕に天性の才能があるかどうかは置いておいて、文章の書き方、そういったものを研究し自らの血肉にしたところで僕が得られるのは上手な文章の書き方であり僕の心の文章の書き方ではありません。
そして僕は最初に「自分の考えた記事のほうが人に伝わる」と述べました。
つまり僕の体感では実に「ふしめろ的」な文章であればあるほど人の心を動かすことができるということが分かっているわけです。
であればこの見出しのようなことも言えるでしょう
自分の思いを伝えるのに書き方など本当は必要ないのかもしれない
この思いの丈を書きなぐったかのような記事は見出しの付け方、文章の構成などなど上手な文章とは到底言えないです。ですが追記にある通りこの記事で一番この思いを伝えたかった人には十分届きました。
と言うことは自分の気持ちを伝えるのに文章の書き方は関係ないようです。
しかし、それでもうまい下手と言う概念は出てきます。
自画自賛のように聞こえますが、先ほどの記事を見てうまい記事だな。と自分では思いますし。各ブログを見ても文章が云々と言うよりは別次元で上手いブログという物は存在します。
有名どころではEverything you've ever Dreamedのフミコフミオさんでしょうか?
文章は詰め込まれまくっていて、いろいろ話があっちこっち行ったりするのにうまいと感じさせる好例です。
そうした文章に行き当たったときにこの疑問がわいてきます。
文章の上手下手を左右するものは一体何なのか?
どれだけ文章に魂を込められるか
これに対する一つの回答が冒頭に出てきたこの文章です。
文章の書き方が上達したためだろうか?
それとも、
君の考えがうまく表現できるようになったためだろうか?
僕はこれに3秒詰まった後、「自分の考えがうまく書くことができたためだ」と答えました。
つまり、
文章の上手下手は自分の思いにどれほど忠実に表現することができたか?
が一つの指標となり、そしてこれが
文章力と言う概念に直結する
と僕は断言します。
これは非常に主観的でもはや本人以外には図るすべはありません。
しかし、この世に満ち溢れる上手な文章という物は少なくない人の心を動かすパワーがあります。それを総じて文章力のある文と言われますが、それはどれほど上手な文章の書き方に準じているのでしょうか?
いままで見て聞いた上手な文章の数々は上手な文章などとは程遠いものです。
言葉尻は乱暴でもなぜか心の奥深くでしみこむような文章もあります。
言葉が丁寧な文章でも次の瞬間には忘れてしまう文章もあります。
「上手な 文章の書き方」という物を否定するつもりはありません。
それはまさしく日本語を正しく運用するために必要なものであり、いずれは学ばなくてはいけないものでしょう。
しかし、それを指標にして文章を書くか?と言うことであれば話は別です。
それは丁寧な文章であり、「ふしめろ的」な文章では断じてないからです。
そうであるのであれば僕が本当に学ばなければいけないのは文章の書き方ではありません。僕の心の動きをチェックし言語化する忠実な表現を学ばなければなりません。
そうすることが、このブログの成長を促進する唯一の方法なのです。
まとめ
多分これは多くの雑記ブロガーに共通することなのでは無いでしょうか?
様々な種類の雑記があふれかえっていますが、あえて雑記ブロガーの分類法を語るなら。
自分の思いを文章化しているのが雑記ブロガー
と僕は定義します。
映画について思うことがあるのなら映画雑記ブロガー、服について思うのなら服雑記ブロガーと言ったように。
そして自分の思いじゃないものを文章化しているのが、メディアとでも言いましょうか?
別にどっちがいいどっちが悪いと言う話ではありませんのでここで切りますが、そうした雑記ブロガーの人が本当に重視しなければいけないのは自らの心の動きであり、その忠実な言語化です。映画に揺り動かされたのならその映画の事を書く。でも一緒に見た相方が超かわいかったので書く。みたいなみたいな。
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