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人間の価値は5000兆円与えたら判るのかもしれない

人間の価値、自分の価値、それに想いを馳せるのは哲学が生まれた頃からあったと思う。おそらくそれは偉大な問いの一つなのだろう。

 

では現在その自らの価値、人間の価値とはの偉大な問いの答えを求めるにはどうすればいいのだろうか?

 

問いに答えるには準備が必要だ。研究者が仮説を確かめるために実験を考えるように環境を整える必要がある。

 

そこで一つの例を考えてみた。もしもあなたに無限の金があったとしたら、わかりやすく5000兆円を渡した場合を考えてみる。その場合対象者がどのように金を使うかを計測すればその人間の価値が測れる。もしくは評価できるのではないだろうか?

 

例えば、Aは高級外車を乗り回し旅行に行きまくりといった消費者然とした行動をとり

例えば、Bは事業を起こしたり投資を行ったりし、

例えば、Cは慈善団体に寄付をしたりし、

例えば、Dは地域社会の福祉を充実したりするとする。

 

このようにはっきりと使い道が分かれた場合、*1各個人の価値は優劣はつけられないものの少なくとも同一ではない。色は違えど優劣がないように。

 

 

 

*1:実際このように別れるというのは考えにくい。実際はAを基準にBCDに夜ような行動をとるだろう

恋愛弱者はおそらくお見合い社会も弱者である

現在の社会を構成する恋愛社会で下の方に位置する人間で、結婚願望を捨てきれない人の夢見ることは過去あったとされるお見合い社会でならば自分も結婚し家庭を持てたはずだったという、一種の懐古主義的な恋愛社会憎悪である。

 

しかしながら、同じく恋愛社会弱者の僕が思うにそれはおそらく間違いでたとえタイムスリップしたとしても現在の恋愛社会弱者がお見合い社会で家庭を持つことは難しかっただろう。

 

なぜならこの恋愛社会はお見合い作法を前提として形作られているからだ。

 

マッチングアプリを利用したことがある方ならお分かりだろうが、まず事細かに自分のことを書けと案内をされる。顔写真、身長、体重、血液型、性格、趣味、職業、年収、休み、自己紹介文、そこからさらに傾向診断やらなんやらやらされてようやくスタートラインに立てる。

そこから自分好みの女性にいいねを連発し、向こうからの返事を待つわけだがこれはほぼお見合い作法の踏襲である。

 

まず最初に色々書かされるやつはお見合いでいう釣書であり、今でいうプロフィールである。

そしてその後、自分好みの女性という部分はお見合い文化における仲人がシステムに置き換わっただけで、「●●さんところのなんとかちゃんが今相手いないみたいなのよ」という昔懐かしいセリフをUIに落とし込んだ結果である。

 

こうして考えてみると、お見合いがなくなり恋愛社会になったと言うよりもお見合いという概念が最新のテクノロジーによってリメイクされ、超高速お見合い簡便社会が到来し大変な手間と労力がかかっていた従来のお見合いが廃れた結果、お見合い以降のお付き合いに比重が置かれるようになっているというのが現在の恋愛社会と言える。

 

そうなると、マッチングアプリで結果*1を出せない人間はおそらく昔に戻ったとしても、まずお見合いにはたどり着けず今よりももっと強い閉塞感を味わうことになるのだろう。

であれば、蜘蛛の糸のような超高速お見合い簡便システムが存在することに感謝して日々を生きたほうが精神上気が楽なのではないだろうか?

*1:ここではマッチするかしないかを結果とする